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RAPA NUI ラパ・ヌイ

南太平洋の大海原に、三角形の小さな火山島がポツンと浮かんでいる。 国として属する南米大陸のチリからは約3700km、 同じポリネシア圏のタヒチからは約4000km、 人が住む最も近い島ですら約2000kmも離れているというから、 正に「絶海の孤島」という名にふさわしい。 1722年にオランダ人提督ヤコブ・ロッゲフェーンが 西欧人として初めて島にやってきた日が、 キリスト教のイースター(復活祭)にあたる日だったため イースター島と名づけられたが、 現地語ではラパ・ヌイ(大きな島、大地)と呼ばれている。
もともとこの島にはポリネシア系民族が住んでいて、 彼らは先祖を象った巨大な石像:モアイを作り、 それを崇拝するという独特の文化を持っていた。 中でも、長耳族と呼ばれる部族が島を支配していた10〜16世紀には、 権力を誇示するために巨大なモアイが盛んに作られた。 しかしその後、人口増加による食糧不足で部族間の争いが激化したため、 部族の象徴であるモアイは次々と破壊されていった。 19世紀になると、ラパ・ヌイの人々は西欧人によって奴隷として連れ出されたり、 伝染病が蔓延したりなどして、かつての巨石文化やロンゴ・ロンゴと呼ばれる 独特の文字(このページの壁紙)を知る人間がいなくなってしまった。
現在、島には867体のモアイが残されているが、 そのほとんどが倒されたままであったり、 製造途中で放置されたままになっている。 近年、世界各国の人々の手によって徐々にモアイが修復され、 かつての姿を取り戻しつつある。

TAHAI タハイ遺跡

ハンガロア村の北に位置するところにタハイ遺跡がある。 3つのアフ(モアイの立つ祭壇)と住居跡などがあり、 イースター島博物館も目と鼻の先の距離にある。 アフは北から順に、眼が復元された1体のモアイが立つアフ・コテリク、 1体のアフ・タハイ、 5体のアフ・バイ・ウリが少し距離をおいて並んでいる。 モアイはそれぞれ西側の海岸に背を向けており、 サンセット・モアイとして眺められる最高のポイントである。
アフ・タハイ(左)とアフ・バイ・ウリ(右)

RANO RARAKU ラノ・ララク

現在は休火山となっているラノ・ララク山の中腹や火口の内部には、 作りかけの巨大なモアイが至るところに散在している。 斜面に埋まってしまい上半身だけ出ているもの、顔の一部だけ出ているもの、 うつ伏せに倒れかかっているものなど、276体の様々なモアイを見ることができる。 この山は正にモアイ製造工場だったところで、 まるでパズルのように組み合わされた状態で、 モアイたちが岩肌に刻み込まれている。 中には、全長20mを超える特大サイズのモアイ・エル・ヒガンテもあり、 いったいどうやってこんなものを作り、立てようとしていたのか、 全く驚かされるばかりである。 山の東側斜面には、モアイの中で唯一、 正座をしている姿のモアイ・トゥク・トゥリもある。
ラノ・ララクでは最大級のモアイ・ピロピロ
製作途中のモアイ

AHU TONGARIKI アフ・トンガリキ

ラノ・ララク山の東側の海岸に、 ポリネシア圏で最大の遺跡であるアフ・トンガリキがある。 全長約100mのアフに15体のモアイが整然と並んでいる。 かつてのモアイ倒し戦争や、 1960年のチリ地震の津波によって完全に破壊されていたアフとモアイを、 イースター島知事の呼びかけに答えた日本のクレーン機器メーカー (株)タダノが1992〜1995年にかけて修復し、建て直した。 上述のタハイ遺跡のサンセット・モアイに対し、 東海岸にあるトンガリキはサンライズ・モアイの名所として知られている。 また、幹線道路からアフ・トンガリキに徒歩で向かう入り口の脇には、 1970年の大阪万博でも展示されたモアイが1体立っている。

補足:日本人スタッフによるアフ・トンガリキの修復に感謝の意を表した イースター島長老会は、世界で唯一、 イースター島以外の場所で、学術的にモアイを立てる許可を与えた。 これにより、宮崎県のサンメッセ日南というテーマ・パークには、 アフ・アキビとラノ・ララクを模したモアイが立てられた。
アフ・トンガリキ1
アフ・トンガリキ2

AHU NAUNAU アフ・ナウナウ

火山岩で覆われた不毛の大地の中で、唯一ともいえるトロピカルな場所が、 島の北側にあるアナケナ・ビーチである。 美しい白砂のビーチと、ヤシの木の林に挟まれたところに、アフ・ナウナウがある。 1978年に復元されるまで、ここのモアイは砂の中に埋もれていたため 保存状態が最もよく、顔立ちや胴体の彫刻が美しい。 7体のモアイのうち4体の頭上には、 髷(まげ)を象ったといわれる赤色凝灰岩のプカオも載っている。 このモアイの復元作業中には、白サンゴでできた「モアイの眼」が発見され、 現在は博物館に展示されている。 また少し離れた丘の上には、アフ・アトゥレ・フケと1体のモアイがある。 これは、島に最初にやってきた伝説の王ホトゥ・マトゥアの像といわれ、 ポリネシア文化を研究した冒険家トール・ヘイエルダールが、 1956年に島で最初に復元したモアイである。
アフ・ナウナウ

AHU AKIVI アフ・アキビ

アフ・アキビには島内で唯一、海の方を向いた「7人のモアイ」が立っている。 といっても、このアフは海岸沿いにあるわけではなく、 島の中央部のテレバカ山麓にある。 7人のモアイとは、ホトゥ・マトゥア王伝説に登場する7人の王子とも、 7人の使者ともいわれている。 ここのモアイはプカオも載せていない比較的初期の時代に作られたモアイで、 1960年に考古学者ウィリアム・ムロイ博士によって復元された。 7人は皆、身長も間隔も石質もほぼ同じで、数あるアフの中でも、 最も整然とした美しい並びのモアイである。
アフ・アキビ

PUNA PAU プナ・パウ

アフ・アキビの南には、 モアイの頭の上に載せるプカオの製作場であったプナ・パウがある。 赤色凝灰岩の山肌から切り出され、 放置されたままの円柱状のプカオが至るところに転がっている。 ラノ・ララクでも感じたが、 こんな巨大なものをどうやってあのモアイの頭上に載せたのか、 本当に不思議である。
プナ・パウ

AHU VINAPU アフ・ビナプ

スペース・シャトルも着陸できる 世界最長の滑走路を持つマタベリ空港のすぐ近くの東海岸に、 2つのアフを持つアフ・ビナプがある。アフNo.1の石組みは驚くべき精巧な造りで、 石と石の隙間が全く無いところから、 ペルーのインカ文明との繋がりがあるともいわれる。 アフNo.1、No.2とも多くのモアイがうつ伏せに倒されたままになっているが、 No.2には赤色凝灰岩でできた細身の女性モアイも立っている。
アフ・ビナプ

ORONGO オロンゴ儀式村

18世紀に起きた部族間のモアイ倒し戦争(フリ・モアイ)の後、 モアイ信仰が衰退し、変わりに鳥人崇拝が盛んになった。 島の南西端のラノ・カウ山の火口周辺にあるオロンゴでは、 年に1回行われる鳥人儀式のための集落が作られた。 断崖絶壁の上に建つ石造りの住居から、眼下に見える小島へ、 鳥の卵を取りに行くのを競い合った。 その勝者が属する部族の長が鳥人と呼ばれ、1年間島の実権を握った。
オロンゴ儀式村

KARI KARI カリカリ

ホテル・ハンガロアに泊まったわけではないのだが、 ハンガロアのポリネシアン・ダンスショーがおもしろいと 宿の主人が言っていたので、連れて行ってもらった。 すると、村の他のホテルからも続々と車で観光客がやってきて、 ショーが行われるホールはあっという間に満席になった。 コの字型に並んだ座席の最前列に陣取っていたら、 ダンスショーはその目と鼻の先で、猛烈な勢いでスタートした。 カリカリというダンスチームのパフォーマンスは想像以上で、 全員で歌いながら踊る姿はものすごく熱気に満ちていた。 今まで、世界を旅していろいろな民族舞踊やダンスショーを見てきたが、 このイースター島のダンスと音楽は最高だった。 行ったこともなかった南の島で味わった心地よいリズム、 これこそが WORLD GROOVE!
カリカリ

UNDERWATER MOAI 水中モアイ

実はイースター島には、陸上だけでなく海の中にもモアイが存在する。 といっても、ダイバーの観賞用として、近年、海に沈められたものらしい。 絶海の孤島であるイースター島には、固有種の魚が多いため、 訪れる前からダイビングをしようと決めていたが、 運良く、水中モアイのポイント にも潜ることができた。

かつて、イースター島の人々は、外界からの来訪者を見るまで、 この世界に住んでいるのは自分たちだけだと考えていた。 それ故、大海原に浮かぶこの島を「大地」と呼んでいた。 文明の象徴ともいうべき巨大な建造物造りと、人口の爆発により、 島の資源は食いつぶされた。 そして部族間争いと外界からの侵略により、人々は絶滅寸前にまで追いやられ、 ついには文明の継承が断たれた。
現在、我々も、この広い宇宙にポツンと浮かぶ惑星を「地球(EARTH)」と名づけ、 そこに暮らしている...。 ラパ・ヌイに残されたモアイたちに、再び同じ光景を見せたくはない。

PHOTO BY OLYMPUS CAMEDIA C-900ZOOM
NOV. 2004